同窓生紹介

田山雄大(たやまゆうだい)

27期生

日本海洋事業株式会社

田山 雄大TAYAMA YUDAI

所属部活:
サッカー部
中学校名:
春日市立春日中学校
大学等学校名:
国立清水海上技術短期大学校
その他学歴等:
特になし
現在職業・所属等(HPで紹介の肩書):
日本海洋事業株式会社 深海技術部 「ハイパードルフィン」チーム所属 ROV(Remotely operated vehicle)オペレーター
これまでの職歴(経歴)等

現職場内で甲板部 → 深海技術部「かいこう」チーム→「しんかい6500」チーム

お仕事について(大学卒業後現在に至るまでの経緯、現在の仕事内容、現在の目標等)

私立文系だった私が手に職をと思い船乗りを目指し、その志半ばで有人潜水船「しんかい6500」と出会いました。それからは畑違いの「深海調査」の世界に飛び込み「超理系」の人たちと仕事をする毎日。現在は憧れだった「しんかい6500」のパイロットを経て、無人探査機「ハイパードルフィン」(以下HPD)のパイロットをしています。

HPDは深度4500mまで潜航して深海調査ができます。調査の内容は深海生物の採取から深海資源の探索、地震や津波を事前に察知するためのセンサーの設置や地震津波ネットワークの構築、海底の固い岩盤への掘削作業など多種多様な研究者のニーズに柔軟に応えられる深海探査機です。個人的には世界一巧みな深海の便利屋だと思っています。
そんな私の主な業務はHPDのメカニック及びパイロットです。つまりロボットの整備や改造から操縦まで幅広くこなしています。私もまた深海探査機にとっての便利屋みたいなものです。

私はこれまでに「かいこう」「しんかい6500」「うらしま」「HPD」など様々なロボットのオペレーターとして世界中の深海を調査してきました。よく7つの海といいますが、そのうち5つまでは制覇しました。残すは南極海と北極海です。そして今、日本は北極海へ行く調査船を建造予定です。もちろんその船にも無人探査機は搭載されるでしょう。私の今の夢はその北極調査船の初期メンバーとして北極の海で深海の調査をすることです。そして未知の生物や資源、まだ名もなき場所へいく喜びを噛み締める、そんな深海の魅力を少しでも多くの人に伝えていきたいです。

筑紫高校に進学した理由

実は中学校までは理系教科のほうが得意だったので行ける学力で理系分野が強い傾向にあった筑紫高校を選びました。また、公立高校の中ではサッカー部が強かったのも理由の一つです。

高校卒業後の進路先である大学等を選ばれたタイミングや理由

非常に恥ずかしいのですが、私はかなりの劣等生でした。よく聞く話だと思いますが中学校では成績がいい方でしたが高校に入った途端に学年で中の下。1年時の期末試験までは勉強したのですが思うように成績が伸びず、そこで勉強を諦めてしまいました。それから赤点補講の常習犯として3年間過ごすこととなり、当然行ける大学も限られます。そもそもその頃は大学で勉強しようなどとも考えたくなかったので手に職をと思い、たまたま見つけたのが船乗りを目指す学校でした。もともと自然が好きで何より釣りが好きだったので海での仕事は向いていると思い、特に迷うこともなくその道を歩き出しました。

高校卒業後大学等の時代、どのような出会いや
どのような過程・タイミングで就職先などを決められましたか?

短大の2年時、学校行事で訪れたJAMSTEC(海洋研究開発機構)で運良く航海を終え、整備中だった「しんかい6500」と出会いました。そこから私の憧れは「海」から「深海」へと移ります。その時通っていた学校は船乗りになるための専門学校のようなところでした。当然求人は船員のものばかりです。それでも諦めたくなかった私は今の会社に船員として入社します。同じ会社ならいつか乗れるかもしれないと考えたのです。それからは深海調査のチームに移れるよう、まずは今いる職場の仕事を頑張りました。世界の縮図のような船員の世界でたくさん苦労しましたが機会があればいろんな人に夢を語りました。そんな中、入社の時お世話になったリクルート担当の上司が私を深海調査チームへ推してくれたのです。それから数か月は船員の世界でさらにつらい日々を送りました。転属の話が漏れたのです。転属するかもしれない新人に同僚や先輩はもちろん何も教えてくれません。ちょうど当時スマトラというところで地震があり、その調査のため2か月間インド洋にいました。辛い2か月間でした。本当の味方は誰もいないように思えました。4人部屋では夜ごと晩酌があるのですがそのたびに嫌味を言われます。昼間は無視です。本当に地獄のような2か月間でした。しかも深海調査チームへの転属は本決まりではない状況だったのです。ですからこの2カ月間、下船して転属できなかったらもう会社を辞めるしかないとまで考えていました。今思うと社会人1年目にして本当に過酷だったと思います。四面楚歌。そんな私でしたが、遠い日本に婚約者がいました。心の支えはその彼女との2時間置きのメールだけでした。当時船では高額な衛星通信を使用していたのでメールの送受信は船全体で1時間に1回でした。当然、受信したメールの返信が送れるのが1時間後。その返事を受け取れるのはそれからまた1時間後になるので2時間おきに会話が成立するといった形でした。そんな不便なやりとりでしたが、彼女は支えてくれて、そして2か月間待っていてくれました。それが今の妻です。ちなみに筑紫高校の同級生なのですが、それはおいておきますね。お陰で私は狂いそうな日々をなんとか切り抜けられて深海調査チームへ転属することができました。その後も私は夢を語り続け、またその時その場でできる努力を続けた結果、憧れだった「しんかい6500」パイロットにもなることができました。

筑紫高校に通ってよかった事(これまでの人生においてどのような時、筑紫でのどのような経験や体験・出会い、学んだことなどできれば詳しくお願いします)

在学中、担任で部活の顧問でもあった先生がよく「二兎を追え」と言っていました。これは筑紫高校が掲げる「文武両道」を更に発展?させたような、平たく言うと全力で欲をかけとでもいうような格言でした。当時はそれを体現することは難しかったのですが、社会人になって家族を持ってからはこれを胸に頑張っています。欲張ることはいけないことですが己を信じてやりたいことを同時進行でもこなすというのはプロとして、妥協を許さない姿勢として当然ですし、もっと広く視野を広げると人との繋がり(家族はもちろん、友人や会社の同僚)と仕事、つまり公私のバランスをとって行くこともこの「二兎を追え」に当てはまるのかな、と思います。良かったら皆さんもいまから二兎を追ってみてください。部活と勉強、それだけが二兎ではないと思います。皆さんの当たり前の生活の中に、もうそれ自体が一匹のウサギかもしれません。これからもう一匹のウサギを見つけて両方捕まえてみてください。

筑紫高校を卒業して思う事と現役生へのエールなど

卒業して20年近く経ちますが、いまだに高校時代の思い出は色あせず心の奥底に大切にしまってあります。いい思い出も、悪い思い出もただただ無駄に過ごしたと感じていた、何気ない日常も、私にとっては全て感謝するべき経験です。今の自分があるのはいつもそんな日常を歩んできた自分があるからだと思っています。悪いことや後悔していることも全てひっくるめて今の自分ですから。だから人生本当に遅すぎることなんてないと思います。受験勉強に出遅れていても、この先万が一浪人しても、それはそれで己の糧となるはずです。でもその時、その時を大切にしていたらと思うことは少なからずあります。私だったら大学に行っておけば良かったと何度も思っています。でもそれは、私が大学に行かなかったことは今ここに立っている為に必要だったのだと思います。そのおかげで今、皆さんに心から「大学受験頑張って!迷っているならとりあえず進学でもいいと思うよ!」というアドバイスを贈ることができます。大学を出ていないことで受ける弊害は時代とともに減ってきてはいますが、まだまだ根強く残っていることも事実です。もちろん社会にでてからは実力が全てです。でもその実力を活かすのには運や人脈も付きまといます。そのうちの人脈は学生時代に培えるものも多いと思います。社会に出てからの名刺交換上の友情は一番脆く崩れやすいです。学友や社会に出てからは先輩、後輩との友情を深めてください。もちろん僕たちOBを頼ってもらっても構いません。周りに助けてもらえる力も立派な実力だと思います。他力本願は己を知っていればこそ願ってもいい力だと思います。話が少しそれてしまいましたがようは大卒という学歴をつけるだけでなく学友を増やせるチャンスも同時に掴んでください、ということです。

最後にここまで大学進学を勧めましたが、一番伝えたかったのは「回り道は失敗ではないよ」ということです。回り道した分も全て人生の経験値です。どうせ回り道をするなら人が真似できない面白い経験をしてください。私は「人生どれだけ面白い経験ができたか」だと思っています。これからも未知の世界を沢山開拓していきたいです。もしも皆さんの中から同じ夢を見ることができる人がいたらその時は私に力を貸してください。そんな日が来ることを楽しみにしています。

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